私達はFUKUSHIMAから何を本当に学んだのだろうか?“村”や“県”や“国”や“業界”や“学会”の閉じた世界ではなく、開かれた世界で大事なことを求め続けてみよう。そのために、以下の問いから「学び捨て(unlearning)」を始めてみよう。
(1) 本気で事故の原因を学んだのだろうか?
(2) 事故原因を調べただけで、事故の本質を学んだのだろうか?
(3) 2度と失敗しないように対策を講じただけで、事故の本質を理解し、抜本的な改革に挑戦しているのであろうか?
(4)考え続けることを止めて「権威」に頼っていないだろうか?
(5)「核」と現代社会は本当に共生できるのであろうか?現代社会は何故「核」を受け入れられないのか?また、もし受け入れることが可能だとしたら、そのための条件は何か?そして何故なのか?
人々は、「核」に関しては、3.11以前の状態に戻ることはない。社会は「非可逆的」で、経路依存性を持ち、ロックインされている。社会がこのロックイン状態を脱却しない限り、社会は、不承不承、「核」を受け入れることはあっても、「核」をわかりはしない。
事故の本当の原因を心に刻み、二度と、事故を起こさないこと、事故が起こりうることを無視した時の状態に戻らないようにすることが大切である。
FUKUSHIMAをepisodic memoryとしてだけではなく semantic memoryとして文明論的に再構成する絶えざる問いかけが必要である。
そうした問いかけを通して社会を設計する指針となる根拠、考え方を選択し、未来向かっての挑戦を開始する必要がある。
状況主義的権威主義ではなく、理性に基づく一貫性のある生き方を目指し続けること、学び続けることが大切である。科学に問題があるとすれば科学をなおし(健康リスクの問題)、技術が問題ならば技術の在り方をなおし、企業が人々を欲望にかり立て破滅にみちびくというのなら企業そのものをあらため、政治が悪いというのなら政治を再設計し、実装するしかない。