8-3 国際・歴史・社会的視点
政府のエネルギー需給見通しが"原子力増設ありき"なのが問題。今日の議論では、増設賛成の人は少なかったのではないか。欧米では、原発は減少傾向にあるが、この現実をどう見るのか。
第三次石油ショックが起きれば、日本が如何にエネルギーを確保するかを本気で考える機会となる。
廃炉については、既に世界で十数台の実績がある。日本でも既に経験もあり、その費用も建設費の1割程度で、必ずしも次世代への負担にはならない。また、原子力発電所から排出される廃棄物の量も非常に少ないため、それなりにお金をかけて、しっかり処理することが可能だ。
超伝導技術の実用化や米ソのデタントにより核兵器が不要になった等の例からも分かるように、現在の知識、状況から先の事を決めてしまうのが良くない。
日本の常識と海外の常識とは大きなギャップがある。
日本だけでなくアジア全体へのエネルギーの安定供給も考慮すると、今後原子力エネルギーへの依存が進むと考えられている。安全保障も踏まえて、協力できることは積極的に協力していくべきである。
中国等のアジア諸国が日本並の産業力を有するようになった時、日本がこれまでのように石油が使えるのかという問題もある。将来にわたっての石油の入手可能性について検討すべきであり、低コストで良質なエネルギーの確保は産業界にとって不可欠である。
欧州では原子力廃止に動いている国が多いという指摘があるが、これら各国間では電力を始めとしたエネルギー供給ネットワークが充実しており、日本とは異なる状況にあることを認識すべきである。
原子力発電に反対の意見があるのは、日本、ドイツ、フランス等の電気を贅沢に使っている国。電力確保が困難な国では、多少安全性に不安がある型の原子炉でも発電を止められないという現実がある。このような現状に対し、西欧諸国は有効な回答を持っていない。
21世紀後半には、途上国の人口増加に伴い、エネルギー需要が増大する。その結果、石油の高騰、石炭発電による環境汚染が懸念され、原子力シフトが起こるだろう。世界では、運転中が32ケ国、建設中は20ケ国で、例えば、アジアでは45基の原子力発電所が計画建設されている。現在ウラン価格は安定しているが、高くなる可能性は強い。
原子力発電所は米国の電力供給量の20%を賄う重要なエネルギーであり、既設プラントは稼動状況も好調なことから、コスト競争力を有していることは明らかである。しかしながら、初期投資が大きいこともあり、新規発注が無い。
ドイツでは、連邦政府と電力業界との間でコンセンサス協議が行われているが、脱原子力の情勢は混沌としている。原子力をやめて足りない電力は、原子力に依存しているフランスから買うと言っている。
日本のエネルギーだけを考えればいいのか、世界のことを考えなければならないのかを考える必要がある。その中で原子力の役割を捉える必要がある。原子力に限らず、自然エネルギーなどを含めて途上国へ提供する技術に取り組むべき。
原子力利用技術は成熟しているわけではなく、世界の中で最も必要としている日本が積極的な技術開発に取り組むべきであり、他の国の動向に左右されてはいけない。
スウェーデンは1980年頃、フィンランドに対して原子力発電設備の輸出を計画していながら、国民投票で国内の原子力発電所の段階的全廃を決めていた。
1992年に開催された「国連環境開発会議」で、原子力は未解決の問題とされ、エネルギーコスト、リスク、ベネフィットが明確化されない限り、それらを基にしたエネルギー政策も正当化し得ない、という意見があった。日本の原子力政策も、その観点から検証されるべきだ。
20世紀は人口の増加、エレクトロニクス等の科学技術の発展が急激に進んだ時代だった。その結果、エネルギー消費も大幅に伸び、「環境」と「人間の営み」のぶつかり合い(Conflict)が激化してきた時代でもある。
廃炉済となっているのは、数百あるうちの十数台であり、残りのものについて今後の処理が問題。
原子力発電は放射性廃棄物の問題もあり、エネルギー政策は次世代への責任も考えて決定されるべきである。
"原子力の半世紀の歴史を検証し、問題点を抽出した後に、議論すべきではないか。また原子力の運営体制について各時点で最前の判断がなされたか考察を行うことも重要である。
評価方法については、タイムフレームなどの枠組みを定める必要がある。"
日本は被爆国ということもあり、原子力放射能に対する抵抗拒絶感が強い。そのような状況もあり、原子力発電はその発足から不幸な環境にあったと思う。
ダイオキシン問題、放射性廃棄物等、今の世代は後世に対して負の遺産ばかりを残した世代であると思われるのは避けなくてはならない。原子力発電は長期的には負の遺産が多いと思われ、その政策について時には立ち止まって考えて、軌道修正することも必要である。
許可手続きをワンステップライセンスにする、ABWRなど次世代炉の開発を進める等により、改善が進んでいる。放射性廃棄物の処理についても超ウラン元素の地層処分(WIPP)を開始しており、ヤッカマウンテンも進展しつつある。このようなことから、米国の原子力発電に変化の胎動を感じている。
石油については、100万年分の太陽の恵みを人類は一年間で使っている。また、地球全体の生物量のうち、約半分は人間および家畜など人間に関わるものである。地球の人口が現在ほど多くなると、その生活による環境負荷が小さいはずが無い。
原子力発電は子供にとって負の遺産となるものであり、人類と共存できるものではないという確信を得たのは、チェルノブイリ事故がきっかけだった。
日本はムラ社会であるが、その弊害を認識して、見直そうとすることが重要である。
日本では「タテマエ」と「本音」、即ちダブルスタンダードが固定化している。このことが電力コスト、原子力の立地問題について顕著である。
日本には「見えるもの」が過剰に重視される一方、「見えないもの」が軽視される、いわば物神信仰がある。このことが特に原子力の事故という危機へのリアリティを欠いている背景となっている。
日本の社会の中で、支配的な操作意識、愚民意識に代表される「トップダウン社会観」と、近年の市民派に代表される「ボトムアップ社会観」という2つの社会観がある。これら2つの社会観をすり合わせる努力が希薄である。
肩書きや専門性から人を選ぶと結果として女性が少なくなる。選ぶ基準を非専門家で、バックグランドを問わずに選べば女性は増える。
原子力に関する有識者の調査が行われた際、女性の比率は3%だけであった。本当に国民の総意を得るつもりなのであれば、女性がもっと参加する必要がある。
「専門家」の議論では、生活者としての専門家という部分もある。
日本では、問題が生じても「なし崩し的に元に戻る」という現象が起こる。過去を風化させないための方法を考えるべき。
原子力発電と社会との関係において、利便性と幸福感の違いを考える必要がある。
大きな問題なのは、無関心層、フリーライダー(社会的ただ乗り)が多く生まれ、欲求の無際限な膨張が充足されるという現代の社会構造である。
原子力技術を利用するに当たっては、現代社会において安全性、経済性がどう捉えられているのか、国民的合意とは何かといった基本理念に基づき行うべきである。
原子力発電の在り方を、原子力の中のみで考えるのには無理がある。社会の在り方にさかのぼり、議論をすべきではないか。国際的視野が大切なことはわかるが、前提として、まず日本の社会がその基本システムとアイデンティティを確立することが必要である。