原子力と社会における現状の改善
情報の共有と活用、特に不確実事象、未知事象、未経験事象に関する情報の共有、活用
・「まだ分からないことがある」中での対応
新規制基準を策定する前は、より広い知識があればより良くできると考えていたが、「安全にどこまで投資すべきか」、「どこまで除染すれば良いか」・・・のように知識が増えても解決が見えない例が多い。最善を尽くしても「まだ分からないことがある」中で、分からないことが分かった時にどう考えるか、経験を活かす枠組みが必要。これは技術者だけではできない。
広い視野で見れば原子力の他にも、防護に命をかけて取り組むリスクは数多くあり、それらの中に原子力リスクをどう位置付けるかという考え方が必要。但し、原子力リスクの特殊性(被害拡大防止施策の緊急性、対処作業での放射線被ばくリスク、避難必要範囲の広さ等)への配慮も必要。
・「御用学者」、「非御用学者」と社会
原発事故後のモラルパニック状況下で、きちんと研究を積み上げてきた専門家が「御用学者」などと誹謗中傷を受けた結果、その専門知識を活かすことができなかった。事故で関心が集まるテーマについて、メディアの取り上げ方等もめぐり擬似問題に気を取られ、本当に必要だった情報の流通が阻害されるという問題が起きた。モラルパニック下でも適切に情報が共有される様にするには、どうしたら良いか。
・意思決定のための俯瞰視点
意思決定するには、緻密に積み上げられた専門知と、適度な粗雑さを備えた知識を俯瞰する視点の両方に果たすべき役割があるのではないか?もし、そうだとすると、適度な粗雑さを備えた知識を俯瞰する視点の正当性をどうやって担保するべきなのか?
・医療現場との対比
医療現場では、事故や病気の不測の事態に対応して救命するのが常態であり、対処を教科書やガイドラインに依存しすぎると上手くいかず、解決を人に依存する度合いが大きい。医療は、もっとシステム設計レベルを高めて人への依存を緩和する必要があるが、医療と比べて事故が非常に少ない原子力では、医療現場から学ぶことがあるのではないか。また、医療も、例えば突然のエボラ出血熱発生のような事態への対処で、原子力から学ぶことがあると思う。このように他分野との相互交流が必要ではないか。アメリカには軍隊があり、その高いリスク管理が他の分野のリスク管理の参考になっているのではないか。軍隊の無い日本では、ここを意識する必要があるはず。
・賛成・反対の議論を噛み合わせるための研究
原子力発電への賛成・反対は互いに全否定でかみ合っていない。前提知識を知らないまま、不毛なイデオロギー対立の状態に陥っている。
・原発再稼働地域で「放射性物質の影響から人を守る」ための避難計画の立案は十分か?
原発事故が、滅多に無い豪雪の様な極悪条件と重なった事態への備えは今すぐ必須ではないとしても、いずれ対応できるように少しずつ改良していく努力が根付いているか?必要なステークホルダーが参加して実際に機能するように策定するには、社会学の知恵が必要なはず。
・コミュニケーションの成功事例
福島の被災地域で、除染で生じた廃棄物の仮置き場の設定に成功した成功事例がある。この事例では、復興への気持ちを共有する自治会長が地元を回り、相手が言うことが無くなるまで徹底的に聞くとか、「仮仮置き場」として暫定性を明確にする等の現場知が発揮され、全員が困っている状態から誰かが損をして事態を動かすことができた。この様な成功事例と比較研究することで、解決指針が得られないか?
・利益相反への配慮
米国やフランスでは、原子力規制機関と原子力推進機関が共同研究し知識を増すことは、原子力規制に有益と判断され、実施されている。両国では、規制機関の独立性を「利益相反があるなら共同研究してはいけない」として担保している。日本は、規制機関の独立性確保が優先し、「利益相反が無いなら共同研究して良い」とされていて、無いことを証明するのは難しいので結果として、原子力規制機関と原子力推進機関の共同研究はされていない。本来の目的は何で、その目的に適合させるには、どうすべきだろうか。
・原子力基本法の尺度に基づいた原子力発電の評価
原子力基本法の目的は、「エネルギー資源確保、学術の進歩と産業の振興を図り、もつて人類社会の福祉と国民生活の水準向上に寄与する」とされている。技術者は安全確保の研究等に取り組んでいるが、「 」内に謳われる原子力のメリットを社会学的に研究し、原子力の評価を複数の軸で行えるようにすることで、原子力発電を社会の中に適正に位置付けられるようにできないか?