『核』における混沌
Chaoscape Design
日本の近代化の歴史の中で、多くの難問に出会って解決を重ねてきた。経済、政治、科学、技術それぞれに大きな格差があった。原子力について別の立場から不勉強の謗りを覚悟しながらも論述したいと思ったのは、2011年3月11日の出来事の後だ。“Hiroshima”、“Nagasaki”という言葉に象徴される出来事は「人間はどうして同じあやまちをくりかえすのか?」という問いに納得のゆく答えを出さないまま、解っていないまま、解っていないことを忘れて走ってきてしまったことへの反省が必要なことを突き付けている。
“FUKUSHIMA”は「近代」の人間が築き上げて頼ってきた科学技術を軸にした思考のあり方を根こそぎ問い直さなければならないことを告げている。誰もが原子力批判はするけれども、その批判自体が結局「近代」の思考の枠の中で行われている。そういう考え方、生き方を改めて問い直し詰めなければならないことは、誰もが感じているが、誰もがその混沌とした泥沼に入って、「解らないこと」を一緒に考えようとしない。このコメンタリーは「解らない混沌」を一緒に考えるための場の設計である。
設計は種の同定とエコロジーの理解から始める必要がある。